その記憶はいつ頃のものですか? : 1964年頃
その記憶の場所はどこですか?  : 小原村平畑(現平畑町)旭村有間(現有間町)

矢作川に渡し船があったのをご存知でしょうか?
今から50年以上前小原村平畑(現平畑町)と対岸の旭村有間(現有間町)を結ぶ渡し船がありました。
幼稚園児だった私は平畑の自宅から一人で川沿いの渡船場まで歩き、船小屋のおじさんおばさんに声を掛けて
渡し船で対岸の有間まで乗せてもらい名鉄有間バス停(当時)から名鉄の路線バスに乗り小渡幼稚園(現小渡こども園)に
通園していました。
帰りはその逆パターンです。
当時は当たり前のようにそんな毎日を繰り返していましたが、今思えば、幼稚園児が一人で歩いて渡し船に乗り
定期券を見せて路線バスに乗り幼稚園に通うなど、現代ではあり得ない日常でした。
当時渡し船は無くてはならない交通手段でした。その証拠に私の記憶では渡し船が村道に指定されていたはずです。


その記憶はいつ頃のものですか? : 昭和47年7月13日
その記憶の場所はどこですか?     : 小原村平畑(現豊田市平畑町)

小原中学校簗平分校1年の時でした。
深夜の突然の山崩れで家は押し潰され、当時高校3年の兄は土砂の下敷きとなり亡くなりました。
絶望と不安の中、『助かる』と希望を与えてくださったのは数日後に泥だらけで現れた警察官の姿でした。
この経験を元に私は警察官となりました。
55歳で退職した後、東日本大震災の被災地岩手県陸前高田市で仕事をさせていただきました。
豊田市(旧小原村)で経験した記憶は死ぬまで忘れることはありませんし、47,7豪雨か私の人生を決めました。


その記憶はいつ頃のものですか? : 2000年(平成12年)9月12日
その記憶の場所はどこですか?  : 豊田市八草町 広幡町 篠原町 大畑町

 小学校に勤めていた私は、豪雨が明けた翌朝、通勤路の国道155号線が、篠原町と八草町で川の激流によって浸食され通行止めになっていたため、抜け道を使って出勤。午前7時前に学校に到着すると、職員は校長と私のみ。学校の自転車を使って、通学路などの状況把握に向かいました。
 八草町と篠原町では、国道155号線が伊保川の激流でアスファルトの下が浸食されて崩れていました。八草町の川沿いの通学路の一部も同様に崩れていました。
広幡町に向かう市道西広見線では、道路に穴が開き、そこに頭から落ちて停まっている乗用車が。広見川沿いの道路のアスファルトの下の部分が激流で浸食され、アスファルトだけが残ったところに乗用車が通ったためと思われます。広幡町の通学路も川沿いを通っているため一部が崩れて危険な状態になっていました。
 その後、通学路がこのような状態のため、臨時休校が決定されました。
 ちなみに、国道155号線の崩壊場所ですが、重要な幹線道路のため応急処置が突貫工事で行われ、次の日には通れるようになりました。その迅速さにも大変驚きました。

豊田市郷土資料館の最終企画展(47豪雨から50年)を見て投稿させていただきました。



その記憶はいつ頃のものですか? : 平成時代
その記憶の場所はどこですか?  : 高岡公園体育館、柳川瀬体育館、下山トレーニングセンター他

 私は小学生から22歳で卒団するまでの10年間、豊田市ジュニアマーチングバンド TOYOTA Illusion Magicに所属していました。
豊田市の音楽活動のシンボルとして発足し、豊田市とその近郊に在住の小学4年生から22歳までで構成される、
全国でも珍しい市立のマーチングバンドであります。
 現役時代は、普段の練習に加えておいでん祭り等のイベントやセレモニー、大会で演奏・演技をしてきました。
大会においては一般の部でエントリーし、9度の全国大会に出場、発足史上最高順位の7位を受賞した時もありました。
その全国大会へは2つの大会を通過しなくてはならず、残りの1度は惜しくも出場を逃しました。
 楽しいことや辛いことを学んだ10年間であり、22歳の全国大会と卒団証書を貰った際は、やり切った達成感と
2度とメンバーとして演奏・演技ができない寂しさが交錯していたのを覚えています。卒団後も仕事の傍ら楽器を続け、
個人の充実を図っております。
 発足から四半期を越え、現役時代を共に過ごしたメンバーは少なくなりましたが、この先も歴史と伝統のある
バンドになれるよう、卒団生の一人として、北の大地から応援していきたいです。


その記憶はいつ頃のものですか? : 昭和47年7月
その記憶の場所はどこですか?  : 豊田市石野地区

 50年前の7月、毎日雨の日が続く12日の夕方、中学生の私は公務員だった父の帰りを学校下のお店で待って車で帰宅しました。いつも通りの生活です。その夜中、寝静まった所に裏山が崩れ、ドーンと大きな音で、両親と私は飛び起きました。激しい雨の音がしていました。両親は外に出て、家の前で溝を作っていました。
 祖父母は家の下の方にある蚕のハウスにいましたが、山からの雨水で川があふれ、蚕ハウスにも水が流れてきました。 
蔵の前で母が父に懐中電灯を照らしていた時、2度目の裏山の土砂崩れが起き、父が「逃げろ!!」と叫んだと思います。母の「うぉー!!」と叫ぶ声を最後に、母は蔵の下敷きになりました。
 その時、私は居間の床に腰掛けて、外を見ながら両親の事を「危ぶなくないか?」と思った直後でした。蔵の厚い土壁が私の脛を擦りました。父は祖父母に助けを求めて、私は2階で寝ている兄を起こし、2人で灯りを作るため火を焚く準備をしていると、祖母と隣近所のおじさん2人とお兄さんが助けに来てくれました。
 ちょうどその時、落雷のような大きな音と地響きがしました。3度目の土砂崩れでした。みんな一瞬で土砂の中でした。「うぅー!」と言う声、兄の「頭が痛い!」と言う声がハッキリわかりました。私は運がいいのか悪いのか、家に一歩入ったところでした。祖父もみんなの最後に来たので助かりました。祖父と一緒に町内の人に助けをお願いしに行きましたが、川があふれ田が川になっていました。そこからは記憶が途切れ途切れです。
 豊田、日進、松平、足助からおじ、おばさんが来てくれましたが、車は途中までしか来れず、「崩れた所を必死で歩いてきた!」と聞きました。沢山の人が助けに来てくださいました。隣のお兄さんはヘルメットを付けていたので助かりましたが、隣のおじさん2人、私の両親、兄、祖母は帰らぬ人になってしまいました。
 7月13日の午前3時頃のことでした。この災害が起こる前、私は2回「危ないのでは…」と勘がはたらきました。何で言葉にしなかったのかと後悔しました。 
 仲良しだった同級生も教科書を取りに家に戻り、追いかけたお父さんと2人共、土砂崩れで亡くなりました。
 13日の昼間は災害が嘘のような青空でした。
 私は雨の音を聞くのがとても怖くなりました。雨が続く日は、外出から家に帰り屋根が見えると安心しました。


その記憶はいつ頃のものですか? : 2021.9月
その記憶の場所はどこですか?  : 自宅ベランダ

長男の一歳半記念に撮影しました。
豊田スタジアムも映ってます。
これから子どもも大きくなっていくけど、豊田市の景色も変わっていくのでしょうか。



その記憶はいつ頃のものですか? : 2022年1月9日
その記憶の場所はどこですか? : 美里中学校

コロナ禍でしたが、中学校での成人式が無事、開催されました。
座席は1つ飛ばしで着席し、マスク、消毒など徹底していました。
小学校、中学校の時の先生や友達にも会えて、楽しい時間を過ごすことができました。



その記憶はいつ頃のものですか? : 2020年4〜8月、2021年5月、8月
その記憶の場所はどこですか? : 豊田市美術館など

2020年3月末、一人暮らしを始めるために豊田市を離れました。下宿先でひとり、志村けんさんの訃報をテレビで見たのを鮮明に覚えています。3月30日に急遽大学の授業開始が1ヶ月ほど延期され、入学式などもキャンセルになり、すぐ豊田市に戻ってきました。少し遅ければ1回目の緊急事態宣言で身動きが取りづらくなっていたと思います。
1ヶ月授業の開始が延期になったにもかかわらず夏休みの開始は例年通りだったので、その短期間に例年通りの授業内容をなんとか教えようと熱心な先生たちが、慣れない中作成した2時間越えの授業動画を毎週公開したり、従来はコメントペーパーのみで出席を確認していたところを毎回エッセイを課題にしたりと、5月から8月は教授陣・学生共に大変な期間だったと思います。そんな中、夕方に豊田市美術館の周辺や敷地を散歩するのが日々のささやかな楽しみでした。
展示入れ替え期間だったり、休館だったりして美術館に人気はほぼなく、犬の散歩をする方がちらほらいたのを覚えています。美しい建物と、水の動きと、木々の緑を眺めては授業で疲れた目を癒していました。5月末、敷地内を散歩していて、授業開始からしばらく経過して疲れてくる時期だったので無意識に下ばかり向いて歩いていたら、小さなカエルがいて梅雨だなぁと気づかされ、たまには下ばかり向いて歩くのも良いものだと思いました。

2021年5月、対面授業が再開して大学で授業を受けていたら同級生がヨーゼフ・ボイスについてリサーチをしていて、近々豊田市美術館を訪れるという話を聞きました。あまりに唐突に地元の美術館の名前が出てきたので嬉しくなり、その話題で盛り上がりました。調べてみると、豊田市美術館がボイスについてオンラインレクチャーを開催すると知ったのでYouTubeで視聴したのを覚えています。(あまりにボイスについては不勉強すぎて肝心の内容は覚えていませんが)地域的な制約を超えた学びを提供する取り組みは、本当に素敵だなと思いました。
2021年8月、帰省したため久しぶりに美術館を訪れたら1年前とは比べ物にならないほどたくさんの人がいて、活気が戻ったことを実感しました。



その記憶はいつ頃のものですか? : 2020年春
その記憶の場所はどこですか? : 豊田市

初めての出産を控え、産休に入った直後、緊急事態宣言が発令。出産の立会いもできる状態ではありませんでした。
出産予定日の日、産院のHPを見ると、立会い再開の文字が。早く我が子に会いたいと思いつつも、再開の日までは待ってねと話しかけていました。話しかけた効果か、再開の日を過ぎてから、出産となり、無事に夫立ち会いのもと、出産できました。
産後は面会が禁止であったため、とても寂しかったですが、夫が産院まで来てくれて、窓越しで電話できたので、すごく嬉しかったし、安心しました。
子どもと同室になったと同時に、面会の制限も緩和され、夫も毎日会いに来てくれました。
日々状況が刻々と変化するなかでの妊娠・出産で、不安な日々でしたが、ギリギリで良い方向に進み、子どもも無事に元気に産まれてくれました。
コロナが早く終息して、子どもたちがマスクをとって、元気に友達と楽しく遊べる日が来ることを願っています。


その記憶はいつ頃のものですか?: 2019年10月
その記憶の場所はどこですか? : 豊田市駅前通り

豊田スタジアムでラグビーワールドカップ
の試合があった日の駅前の風景。
たくさんの人で盛り上がりました。

日本代表チームの活躍もあって、
そんなにラグビーに興味がなかった自分も
駅前に繰り出しました。
屋台がたくさん出ていて、食べたり
散策したり、普段とはまた違う雰囲気を
楽しみました。

トヨタキャッスルホテルの前で、
バスに乗ってスタジアムへ
向かう代表選手を一目見たいと思い、
何時間も待ったのですが、ついに
現れて応援の声をかけることが出来ました。